2008年02月15日

ドミニク・アングルの作品

この人大好きです。
もっといろんなこと知りたいです。

生涯と作風
フランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに装飾美術家の子として生まれる。父親は美術家というよりは職人で、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていた。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。実際、ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成し、彼のスケッチを残している。

アングルは12歳の時、トゥールーズのアカデミーに入学。1797年パリに出て、新古典派の巨匠、ダヴィッドのアトリエに入門する。1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞した。ローマ賞受賞者には、国費でのイタリア留学が許可されたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、1806年にようやくイタリアへ向かっている。その後アングルは1824年までの長期間イタリアに滞在し、1820年まではローマ、以後1824年まではフィレンツェで活動している。この間、ラファエッロ、ミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していた。有名な『ヴァルパンソンの浴女』(1808年)、『横たわるオダリスク』(1814年)などはこの時期の作品である。

長いイタリア滞在の後、1824年、フランスに帰国。翌年レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動を経て、1834年(1835年とも)再びイタリアへ向かった。ローマでは同地のフランス・アカデミーの院長を務めた。1841年再びパリへ戻る。この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催された。代表作の1つ『トルコ風呂』は、最晩年の1862年の制作である。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。

アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えた。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。その作風は、イタリア・ルネサンスの古典を範と仰ぎ、写実を基礎としながらも、独自の美意識をもって画面を構成している。『横たわるオダリスク』に登場する、観者に背中を向けた裸婦は、冷静に観察すると胴が異常に長く、通常の人体の比例とは全く異なっている。同時代の批評家からは「この女は脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」などと揶揄されたこの作品は、アングルが自然を忠実に模写することよりも、自分の美意識に沿って画面を構成することを重視していたことを示している。こうした「復古的でアカデミックでありながら新しい」作画態度は、近代の画家にも影響を与えた。印象派のドガやルノワールをはじめ、アカデミスムとはもっとも無縁と思われるセザンヌ、マティス、ピカソらの画家にもその影響は及んでいる。

当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」として、フランス政府に禁止するよう抗議した一方、自らの絵のモチーフに写真を用いていたことでも知られる。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月08日

キリスト教の正典と外典の違い

なんだかありすぎて混乱している人、
必見です。

旧約聖書
宗教改革以前のキリスト教会には、旧約聖書の正典・外典という区別はなかった。伝統的キリスト教会は、ヤムニア会議以前に成立した古代ギリシャ語訳の七十人訳聖書、ないしその翻訳を旧約聖書の正典としていた。マルティン・ルターがヘブライ語本文から聖書を訳した際に、ヤムニア会議の定めたテキストと、カトリックが使っていたラテン語聖書との異同に気付いた。ルターはこれを外典と位置付けた。キリスト教における旧約聖書の正典・外典の位置づけは諸教派により異なっている。(旧約聖書の項に詳述)

新約聖書
新約聖書の正典の選択は、古代教会の自己規定の確立と連動するかたちで確定していった。一般に正典の基準として以下の四つの基準がよくあげられる。

 使徒に由来するものであること
 ある地方にとどまらず、広く教会全体で受け入れられていること
 典礼において用いられてきたものであること
 内容が正統信仰と整合性を保っていること
歴史的には2世紀にマルキオンが独自の視点から旧約聖書を排除し、聖書の「正典」を編纂した。このため、マルキオン派など異端への対抗上、キリスト教正統派における「正典」を決める必要が生じ、教会内での議論を経て、367年にアタナシオスの書簡において、初めて27文書が選択された。この基準は397年のカルタゴ会議において正式に承認されている。

東方教会では10世紀までに事実上正典が確定している(東方教会で最終的な決定と認められるための条件である世界公会議での議決は受けていないため教会法的には未だ未確定との立場もありうる)。東方教会で最後まで扱いが議論されたのはヨハネの黙示録であったが、西方で支持されたこの文書は最終的に東方でも正典と認められた。西方では、ルターの宗教改革の影響で、16世紀から17世紀にかけて、正典の公式な定義が行われた。カトリック教会では1546年のトリエント公会議において聖書の正典・外典の定義が再確認された。プロテスタント教会でも17世紀の中盤に同じ27文書を正典と認めている。

なお、新約聖書外典の中には、トマスによる福音書のように異端であるグノーシス主義の思想が見られるものや、ヤコブ原福音書、トマスによるイエスの幼児物語など四福音書に書かれていないイエス誕生前のマリアやイエスの幼少時を記していて、カトリックの教説に取り入れられたものもある。

また、新約聖書に入らなかった文書のうち、内容に問題はなく使徒の著作でないことのみが問題とされた使徒の弟子(「使徒教父」とよばれる。)による文書は使徒教父文書と呼ばれる。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年09月20日

ベビーカー事故について

幸い、男児は無傷、お母さんも軽症で済んで本当良かったです。引きずられた瞬間は相当の恐怖だったと思います。ご自分の事よりも我が子の命を真っ先に考えたんでは・・・3cmの隙間があれば発車しないシステムらしいですが、ベビーカーの取っ手の間隔からすると3センチ以上あるはずですよ、作動しなかったって事は故障でしょうか?

『参照記事』

20日午前10時10分ごろ、堺市東区日置荘原寺町の南海高野線萩原天神駅下りホームで、停車中の難波発河内長野行き普通電車(6両)から乗客の女性(38)がベビーカーを降ろそうとしていたところ、扉が閉まった。電車はベビーカーを挟んだまま発車、ホームの先端を行き過ぎ、約140メートル以上走行して停車した。女性は約10メートル引きずられて転倒し、右ひざを打つなどの軽傷。ベビーカーには男児(1)が乗っていたが、けがはなかった。大阪府警黒山署は業務上過失致傷の疑いもあるとみて調べている。
 同署や南海電鉄によると、電車は運転士と車掌各1人が乗車。先頭から2両目の車両内にベビーカーの一部が取り残され、ベビーカーの取っ手の部分が扉に挟まれた。女性は取っ手の部分を握っていたため、ひきずられたとみられる。電車の乗客が異常に気付き、非常通報装置のボタンを押して通報、運転手が非常ブレーキをかけて停止した。車掌は異常に気づかなかったという。
 電車はホームの先端から70?80メートル行き過ぎて停車。この間、ベビーカーは宙づりの状態になったまま走行、電車が停車した後、近くにいた人がベビーカーから男児を救出したという。
 南海電車は、ドアに異物が挟まるなどして、すき間が3センチ以上あれば、ドアが開いたままになっていることが表示され、発車しないシステムになっているという